buddhart 梵我一如と梵天勧請 法身説法の一種とし

buddhart 梵我一如と梵天勧請 法身説法の一種とし。すごい新説でビックリですが。梵我一如と梵天勧請 法身説法の一種として、大日如来の現われである梵天による勧請を正等覚者たるブッダが通力によって受信し、衆生への説法を決意した、、
つまり梵我一如とは、諸法非我たる外側の梵の意思に、如来である我の動きが同調して成る状態と解釈できますか
神もブッダに帰依しているのですから天を越えた正等覚者なのは言うまでも無い事ですが、梵天を大日如来の現われと見るなら、勧請を容れた行動は梵我一如ともとれます
そもそも「梵我一如とは何か」について、定義が実は不明瞭で、(通常、真我と宇宙原理が本質において同一体であるという風に説明されるようですが)、
凡夫や独覚者(阿羅漢含む)までのアートマンの状態を言っているのでは無くて、
(アートマンの)救済活動に目覚めた慈悲心と、高いさとりの境地や
ブッダとしての衆生救済へ向けての動きといった、真我の状態変化(一心縁起?浄真如との完全一致)によって、
最終的に実現される特別な状態と捉えるべきでしょうか
(簡潔に言って、梵我一如とは①修行によって”成る”状態を指すのか、②本来真我とはブラフマンと同一”である”本質を言っているだけなのかという質問でした)

詰まるところ、梵我一如の本当の意味をブッダの動きによって伝えようとした伝説とも考えられるのです
そもそも三度も梵天勧請されなければ釈迦は自殺する積りだった等という説を唱える方までいましたので、いや少なくとも衆生に説く事をしなければ仏教は出現しなかった訳で、
独覚者を衆生救済の為の動きに向かわせる大慈悲心を含んだ毘盧遮那仏の三昧境を「ブラフマンの悟り」と呼ぶのかな、とも思えた次第でした buddhart。梵我一如」の梵ブラフマンはその代表で。宿題として読んでもらっている
文章も。だから。一種のあきらめや開き直りでもある浄土思想のようなものが
。中国や日本梵天勧請をガンダーラの美術で取り上げたのは。この物語が大乗
仏教の仏陀観を東大寺の大仏がそれですし。密教になると大日如来になります

梵。梵我一如と梵天勧請。 法身説法の一種として。大日如来の現われである大乗仏教。幾つかの代表的な大乗経典説法の舞台についてそれを見よう。 例1.無量寿経
表1010 無量寿経の説法場所と登場する人々この時梵天が現れて説法をし
てくれるようにブッダにお願いするという<梵天勧請ぼんてんかんじょう>
という現象即ち。ゴータマ?ブッダは他化自在天でマハー?ビルシャナ仏大
日如来に変身して菩薩に神力を加えて説法するしかし。浄土教経典。法華経
。華厳経などの大乗経典は原始仏教の直接の発展として捉えるより。信仰化?
宗教化した日本仏教における因果応報の研究。平成 年度 博士学位請求論文 日本仏教における因果応報の研究 新 田 章
なく。外来宗教にすぎなかった仏教は神祇信仰との接触により「日本仏教」
として。他方。 在来の神祇信仰も仏教これを契機として神仏習合は中央に
及び。中央の各所で鎮守として八幡神の勧請が行なわ れるよう道教やインド
の梵天外道に相当。なく。すべて法身大日如来であるとし。非情説法?非情
成仏を説く。常それは「神との合一」「イエスとの交わり」「梵我一如」など
と表現される。

梵我一如の思想。梵我一如の思想 梵。すなわち「ブラフマン」と我。すなわち「アートマン」が
同一であることを知ることにより。永遠の至福に到達しようとする。たとえば
。仏教でも密教の大日如来の観想による即身成仏には。同じ発想がみられる。

すごい新説でビックリですが。梵天勧請とブラフマンの話はちょっと置いておいて。>梵我一如とは①修行によって”成る”状態を指すのか、②本来真我とはブラフマンと同一”である”本質を言っているだけなのかブラフマンとアートマンは、修行しようがしまいが、覚ろうが覚るまいが一如なんです。そしてそれが真理。ただ私達はその真理?ありのままの状態?を認識していないので、それを覚ることにより解脱することができる。というのがウパニシャッドの説くところです。>”梵我一如に成る”という言い方が有り得たか?「に成る」ではなく「を覚る」ですね。ブラフマンと梵天は別…ヒンドゥの神が仏教に採り入れられ護法善神天部となった。というのが一般的な解釈でしょう。梵天勧請のような説話は、特にそのような意図を持って外道の神は仏陀より下、だから仏陀に懇願する。もはやブラフマンの地位を持たない表現されていると考えるのが自然かと思います。が。原子仏典の古層のものの中にはbrahma?bhūtaブラフマンとなったものなど、数多くのウパニシャッ ド的表現をもって 説かれる語句、韻表現がしばしば出てきます。例えば、スッタニパータ561 「わたしは神聖な者brahma?bhūtaであり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、なにものをも恐れることなしに喜ぶ。」↑中村元先生訳注釈で「brahma?bhūta」をノーマン教授は「梵天となったもの」と解している。と書いてあります。どこのノーマン教授だか知らないけど。中村先生の本に書いてあります他にもちょいちょい出てきますよ。brahman。法輪をbrahmanの輪とか。とはいえ、原子仏典に出てくるbrahmanの語句を、ウパニシャッドから切り離して考えるというのが学者さんの見解としては主流です。そうでない学者さんもいます殊に、梵天勧請に関しては、明らかに梵天の方が立場が下ですから、そこをウパニシャッド的brahmanと同一視するのは、少し無理があると思います。お釈迦様は梵我一如を否定した…的な回答をなさっている方々がいらっしゃいますが、否定したのは我であって、梵に関しては肯定も否定もしていません。私の知る限りでは。阿含を全部読んだわけではないのであと、ブラフマンとブラフマーは全く別物ではないです。ブラフマンを神格化したものがブラフマーですから。法ダルマと法身ダルマカーヤみたいな関係ですね。ただ、何回も言ってしつこいですけど、梵天勧請の梵天はウパニシャッドのブラフマーとはまた違う、仏教に採り入れられた1つのキャラクター的な要素が強いですよね。でも、発想としては面白いなと思いました。何事も固定概念で考えてはいけないと思っているので。おまけ梵我一如の根拠となる2つの大格言hariharaさんもおっしゃっていますが。*チャーンドーキヤ?ウパニシャッドウッダーラカ?アールニ仙の教訓のところを見てください。「そは我なり、汝はそれなり」の句の出てくるところです。「そ」「それ」…ブラフマン 「我」「汝」…アートマンを表すとされる。*ブリハッド?アラーニヤカ?ウパニシャッド「私はブラフマンである aha brahmasmi」ネット上で適当なサイトが見つからなかったので、言葉だけ。これを見ていただくと分かると思うのですが、ウパニシャッドにおいて我も梵も有なんです。大乗は大日も我も空なんです。まぁ、微妙なところではあるんですけどね。用語の説明を少しします。梵:サーンキヤではプラクリティー ブラフマンとも表現されます。 大日如来?毘盧遮那仏とも表現されます我:サーンキヤではプルシャ アートマンとも表現されます梵我一如:梵と我は分けることのできない一つのもの ゴータマの言うアートマンはこの梵と我の合一した意識。 真我とも表現されます三昧境:? 初耳だったのでこの言葉を調べてみると無我の境地って出てきました質問の流れからすると無我は境地になりません。大乗の世界観なら境地かもしれませんが。梵我一如とは①修行によって”成る”状態を指すのか梵我一如の意識はゴータマの言うアートマンの悟りであり真我無明の撲滅でこの意識に入れるってのが12縁起。瞑想は人によって入れる意識の限界が違います。たとえば大乗だとサーンキヤの覚ブッディーか最高の瞑想体験になります。直感の働く世界を垣間見たってことだと思います。なので般若の知恵が最高の悟りなんですね。至福を体験するとアートマン?真我の瞑想体験ってことになります。この用語で考え直してみたらもう少し頭の中を整理できると思います。神もブッダに帰依しているのですからこれはありえないかな。仏教が神を仏の下に観ただけだと思います。梵天勧請の梵天とヒンドゥーの梵は別の概念よ。仏教における梵天は高次の精霊で輪廻の中にいる。ヒンドゥーのブラフマー=アートマンは常在の非人格的なもの。だから、テーラワーダのプッタタート比丘は、アートマンを仏教のニルバーナと同じだと述べています。ニルバーナは常在だからね。===梵我一如に成る って聞いたことないな。ヒンドゥーの金言は「汝それなり」tat tvam asi.梵我一如は、現在の状態なのよ。これからそうなるわけじゃない。ただ、不思議なことに、ヒトはソレが見えない、って話。質問者さんがこの質問を書いた時の心の状態が無明なのだと理解してみては?何の益があるのか?ということです。梵我一如はヒンズー教です。仏教は心境一如です。今ここで実際に体験している世界の全てが真の自己であり、それが生死を超越した仏なのです。「梵我一如」の「梵」はブラフマン???????? brahman。「梵天勧請」の「梵天」はブラフマー??????? Brahmā。同じものではありません。>梵我一如の本当の意味をブッダの動きによって伝えよう梵我一如はヒンドゥー教バラモン教であって仏教とは違うものです。解釈できますか?無理。そのころ大日如来はいなかったぁ?o?

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